会話すること

近頃、「趣味は何ですか?」「好きなことは?」と訊かれて素直に答えられる自分が、とても嬉しい。「舞台を観ることです。特に歌舞伎。」と、口に出せるのだ。趣味なんてない、夢中になれるものなんてない、と苦しんでいたのを笑い飛ばしたくなる。
9月になると「夏休みはなにをしていた?」という会話のきっかけが多くなる。英語の面接なんかでも必ず出てくる。趣味、とか好きなこと、とか週末にしたことを訊く/答えるのが会話のきっかけであると気付いたのはつい最近のことだ。


趣味がない、といったら確かに嘘になるかもしれない。コンサートにはよく行くし、折り紙を始めれば何時間でも熱中するし、楽器に触るのが好きだし、本は山積みにしてでも読む。靴は自分のだけでは飽き足らずに両親のものまで磨きたくなるし、チェコと名がつくイベントには足を運ぶ。どれも趣味と言えないことはないかもしれない。でもそれらを、胸を張って「趣味です。」とは言えない何かこだわりが、私にはあった。
そのこだわりのひとつに、「どうせ言ってもわかってもらえないだろう。暗いと思われる。また変わったヤツだと思われるんだな。」そんな気持ちがあったように思う。
それでは、歌舞伎ならいいの? それもまた、違うのだ。誰もが(一応、名前だけは)知っている歌舞伎を持ち出すから良いのではなく、話題にすること、大げさに言えば自分の向いている方向をさらけ出すことに意味があるのだ。


歌舞伎が好きだ、と口に出すと変な顔をされることは否定できない。それでも、話題にすることで”会話”が生まれることにやっと気付いた。相手が歌舞伎を知っていようが好きでなかろうが、とにかく声を一度でも二度でも交わすことができればそれでいいのだ。いいのだ・・・? それもちょっと違う気がするけれど、まあ、悪くはないのだ。


昨日、美容院で担当してくださるお姉さん、それから洗髪をしてくれたお兄さん。そのどちらにも夏は歌舞伎をたくさん観た、という話をした。話を仕掛けるこちらはガチガチなのだけれど、お二人とも楽しそうに乗ってくれた。ああ、これが”会話”なんだな、と実感したものだ。
お姉さんは海老蔵さんとか獅堂さんの名前を知っているくらい、お兄さんは以前に一度、国立劇場の鑑賞教室に「行ったことはあるけど演目は覚えていない。」、そんな感じ。それが当然なのだと、思う。それでも「演じる人で、好きな人とかは?」という質問は共通で、ついつい春猿さんの名前を挙げて翌日(今日ですね)のテレビを宣伝してみたり。
以前の私なら、「夜まで仕事をされているから見られないだろうな。宣伝なんかしない方が良い。」と考えて口をつぐんでしまったはずだ。それが、会話の楽しさに乗って、ふと気付けば鏡の中の自分の顔がずいぶん柔らかくなっていた。


ありがとう。お礼を言いたい。これからも、なるべくまっすぐな心で楽しんでいきたいと思う。