七月大歌舞伎(泉鏡花) その4『山吹』

7月10日月曜日(記:7月10日、公開:7月22日)
関連記事:2006年8月22日

いつものことではありますが、「事実」と「感想」と「希望」の入り混じったものになっています。

さらに。基礎情報・・・つまり出演者、筋書きなどについて歌舞伎座情報ページ、及び他の方のすばらしいブログをご覧になることをお勧めします。どうも、苦手なんですね・・・。

14時から並んで、幕見席を通しで購入。中心の席は良いが、ライトが真後ろから当たるので暑いし、明るくて集中できないことがわかった。

『山吹』
 事前のイヤホンガイドで「美しい花の中」と解説されていたのだが、花が咲き乱れる舞台は、平和そのものだった。幕開き。原作どおり、歌六さん人形遣い辺栗藤六は後ろを向いて酔っ払っている。静御前が・・・とても、きれい。美しいのだけれど、それ以上に清潔な存在。


 辺栗万屋の店主がやり取りをしている間に、下手後ろ側から縫子登場。四階席から観るせいか、とてもさりげない。笑三郎さんだと知って観るから笑三郎さんだけれど、いつもと違った雰囲気をかもしだしていた。動かないようで、前に進む動き。スクリーンに乗せて前に引かれている感じ。


 第一声は静御前を目にしての嘆息、「まぁ・・・」です。声がいつもより高いのにびっくり。若さを意識するのかな(笑三郎さんは若いんだってば!!)。傘を差した姿は、立役っぽさを感じた。お芝居が進むにつれ、美しさが本当に際立ってきて、ぐいぐい引き込まれていった。時代物の、ぐっと目を赤く吊り上げるのとは違って、目の周りに薄く紅をさす化粧だから、顔全体がすっきりと見えて、きつさが感じられない。
 池の横に膝まづき、死んだ鯉に気付く“間”は、非の打ち所もない、正しさいっぱい。きちっとしている。これは段治郎さんも同じなのだけれど、笑三郎さんほどぴたっとははまらないのね。段治郎さんといえば、『夜叉ヶ池』の晃のような線の細い役よりも、絵描き“先生”島津正は堂々としていてとても気持ちが良かった。合っている役だと思った。特に声が、しっくりいった。体格といい、歩き方といい、あんなに立派な方だったんですね、という感じ。



 全体に話がゆーっくりと進み、大きな展開も見せ場もないものだから、物語に沿っての感想がなかなか書きづらいものです。お芝居を通して舞台上にある静御前の人形は、細いからそうも見えないけれど人間の背丈ほどもある、そうで。確かに、歌六さん人形遣いが背負うと足を引きずりそうでしたね。だからって、笑三郎さんとか段治郎さんと比べるとどうなるの、と気にならないでもありませんが。横道にそれました。とにかくその静御前が、ものすごい存在感。舞台の別のところに集中していてふと、目に入った瞬間、そこに新しい登場人物がいるのかと何度も驚いたほど縫子と同じ方向を向いていることが多かったのも、演出の一つかしら。



 馬引き欣弥さん、やはり注目すべきすばらしい役者さんです。今日はひたすら「ああ、気味が悪い、恐ろしい」だったけれど、欣弥さんが舞台に出ると始めから終わりまで無駄のない、充分な時間が流れるのです。花道が良く見えなかったので、退場の時に起こった“何か”は、わかりませんでした。
 あとは、念仏行列の喜昇さんかな。なにしろね、お顔がね、覚えやすいもので。集団の中でも、老け役を意識して演じていられたように見えました。お上手なのだと思います。



 ストーリーは前後しますが、唯一見せ場としては責め場かな。あまり、嬉しくない事実だけれど。始めの数打は、ゴルフでもしているように見えてしまって、初めて笑三郎さんの演じられる役に男性が重なってしまいました(しょうもない、私です)。けれど、人形遣いの挑発にのって傘を引き裂き始める狂乱の縫子、怖かった〜。人形遣いのセリフ一つに一破り、なのだけれど、だんだんそのテンポが上がっていくようで。縫子の心には何が、浮かび上がっていたのでしょうか。
 「畜生、ちくしょう」のセリフもすごかったし、いつの間にか乱れていた結い髪も、本当にすさまじかった。下駄を脱ぐ瞬間は、あまりに自然で、雲の上でも歩いているかのようで。桜の木に摑まって踏ん張る人形遣いを、背となく腕となく叩いていきますが、実はここでの音、ツケではなくて傘で床や枝を叩く音。桜の花びらがはらはらと散る・・・。そりゃ、役者さんを直接殴るわけにはいきませんものね(ふと思った。尾上と岩藤の時はどうなんだろう?)。その一振り一振りに、やはり型があって、立ち回りを感じさせる。これが良いんだな〜。そして、さすが笑三郎さんなんだな。・・・でも最後に一打、本当に頭を打ちませんでした? そして狂乱した縫子、気絶。


 段治郎さん島津が登場してからは、辺栗縫子、それぞれに長い告白のセリフがあります。酔いが醒めた口調の歌六さんは、お声が意外に若々しい。ただ、言っている内容が難しすぎるし、ことあるごとに土下座してしまうから、結局何だったんだ? という印象を与えたかもしれません。
 一方の縫子。非常に色っぽい描写があるのですが、かなりさらっと流していた印象。同じ“胸を掻き抱く”演技でも『小栗判官』の時の女将さんの方が色気を感じたって、どういうことだ!?



 セリフについては。笑三郎さん縫子の(いや、この人以外は口にしないけれど)「先生」は、「せんせ」と落ち着かせるのではなく、「せんせぃ」とはっきり最後まで発話するのが気になった。おそらく何か意味があって、含ませて、このようにしたのでしょうね。あとは、「あなた」よりも「小父さん」とか「先生」の方がしっとりと、女らしさがあったように思います。


 どこかで、別の演目の批評でしたが、「段治郎(さん)の訛りが気になる」というのを読んだことがあって。実は今日、最初の方の一言二言目くらいで、あれ? と思ったところがありました。東京出身という設定だから、わざと訛らせるわけはないでしょうから、息の長い文で少しイントネーションが狂ったかな? と思います。とても気持ちのいい言い回しだったから私は好きなのですけれど、ね。このことは、また後でも。



 縫子辺栗が花道を退場していき、そこで拍手が起こってしまったのは少し残念。二人の役者さんへの拍手と考えれば良いけれど、おそらくそこで幕切れだと思った方が多数だったのでしょう。残された島津人形遣い静御前を見上げ、縫子の下駄を胸に抱き・・・捨て落とす。いい演技ですよね〜。「仕事がある。」で笑いが起こってしまったのが残念。ですが、最後に遠くにしっかりと目を据えた段治郎さんの表情、幕切れにふさわしく、力強く、素敵でした。

<おまけ>

 夜の部の二作を通じて。まず、『山吹』の最後のほうで、段治郎さんの訛りに触れました。今回の四作品はどれも、東京方言で話されていて(村の人たちは別として)、それに何の違和感も覚えませんでした。それがふと、件のセリフを聞いたとき、疑問を感じたのです。『夜叉ヶ池』は越前国、『天守物語』は姫路(まあ、大半が妖怪だけれど)、『山吹』は修善寺ですが、縫子と島津は東京出身。例えば。『天守物語』の半ばで矢を射掛けられた亀姫のセリフ「大事ない、大事ない」・・・ほら、関西のイントネーションの方がしっくり来ます・・・けど、ダメか。亀姫は猪苗代に住んでいるんでした^^;。


 試しにそれぞれの方言でセリフを再現してみたら、これがよくハマるんですね。そんな選択肢は・・・なかったのかしら。六月の三越歌舞伎で上方の台詞回しを初めて聞いて予想外に美しいものだと思ったものだから。鏡花は金沢の出身ですが、作品のほとんどは東京で書かれている、とすると、彼自身はどんな音(おん)をイメージしながら書いたのだろう、ということが気になってくるのです。

・・・と、まあ、自称”語学まにあ”のたわごとを付け加えてみました。