七月大歌舞伎(泉鏡花) その7(くらい) 『山吹』

ayameusui2006-08-01


7月24日月曜日 & 7月31日月曜日(千穐楽)
関連記事:2006年8月22日

今、笑三郎さんの「邦楽ジョッキー」で『山吹』のお話を聞いています。独白部分での雑音について。玉三郎さんの台本について。。。ついついレポートの手も止まってしまうほど、面白い、そして興味深いお話。
(7月28日 記)

そして、千穐楽のレポートです。

『山吹』

 前回が四階席からだったので、ずいぶんと舞台が近く感じられる。そのためか、酔っ払っている歌六さんのセリフもはっきりと聞こえる気がした。「往生寂滅するばかり」ゆったりとした、それでいて一定に安定した話し方に、ほ、っとする。

 笙の音(?)と共に縫子が登場する。やはり(28日の『海神別荘』で感じた通り)・・・雰囲気がイメージしていた、そして前回見た『山吹』の笑三郎さんと何か違う。一週間で、なにが変わったのだろう? いい意味での不安定感。この方の声にはかなり特徴があり、少し苦手なのだけれど、ちょっと力を抜いたような時にものすごく澄んだ声になるのだと知った。胸に響かせるような声ね。女形の声としての可否はもちろん、わかりません。


 画家の島津が登場する。「半ば眠れるが如き眼」は、とうとう理解できず仕舞いだった。静御前の人形を見る彼は何気なく縫子の傘に入るのだけれど、この舞台では縫子が差し掛けているように見えた。その方が、たぶん女性の観客にはしっくりくるでしょうね。


 ふと。池に浮かんでいる鯉は、『夜叉ヶ池』で使われた“鯉七”と同じ小道具かしら? なんとなく、光り方が違うようにも感じましたけれど、どうだろう。
 小道具といえばもうひとつ、“井菊の傘”。後半であれだけびりびりにするのはどういう仕掛けだろう、マジックテープでも付いているのかな、と思って前半、傘を開く場面で観察するが、どう見ても普通の番傘。最後になって、わかりました。前半と後半では、違う傘を使っているのね。傘を裂く場面は本当に恐くて、でも目を放せないのだけれど、それにも増して最終日だからか、骨まで折ってしまっているようにすさまじく感じました。
 さらに傘と言えば、島津がステッキ代わりにしている傘。最後に開いて縫子に持たせるのですが、その開く時のカチッという音がどうにも安っぽい、言い換えれば現代っぽくて、残念でした。自分の傘を開く時と同じ音なのだから・・・。


 蛇に見せかけた縄に驚き、そこで縫子は「もう、蛇でも構わない」と覚悟を決める。始めからしっかりした印象だけにここでの心の変化がわかりにくい気はした。けれど、ものすごく美しい。この場面で(たぶん驚いて倒れた時に)丸髷が少し解けかけていたようで、ハラハラしました。実は責め場でもなかなか髷が解けなかったようで、ハプニングはつきものなのだな、と思ってみたり。


 番傘を取り落とし、悄然となる縫子は、ちょうど真後ろにいる静御前と重なるようで幻想的だった。笑三郎さん、大丈夫? と本気で心配したほど、魂の抜けたお姿。その眼には、何が映っているのだろう?


 ここで、思ったのです。籐次の罪は、これだけで弾劾されるものだったの? と。籐次が手を出して(下世話な言い方だけれど)死に追いやった女の人の苦しみは、肉体的な“痛み”とかそういったものではなくて。生きていられなかったほどの彼女の苦しみを引き受ける手段が、“あれ”でいいの?
 嫌な言い方をすればそこが、鏡花もオトコだな、ということだし、そうでなければ観客としての私の勉強不足、理解力不足ということになる。“美しい女性から責めを受けたい”と言う籐次だけれど、責めている方の縫子にしてみれば相手は“世間”で、“姑・小姑”で、つまり“女として男への恨みを晴らして”いるわけではない。それでいいのかな、どこかズレていないかな、と。
 笑三郎さんが筋書きのインタビューで話しておられる「縫子と籐次の精神的結びつき」としてそこの部分が表れてほしかったな、と思った。勝手な解釈ですが。

 どうしても上手くノリきれなかったのが、縫子の告白に相づちを打つ、例えば「それは酷い」などの島津の呼吸。間、というのか反応のタイミングかな。観客として、舞台全てに同化することは、できないのです。


 花道への引っ込み、客席の全て、少なくともどの階からも大きな拍手。間違いなく、歌六さん笑三郎さんへ贈られたもの。幕引きのためのではなく、少しゆっくり目、とでも言おうか。心のこもった拍手が続いた。すばらしかったぁ〜。揚幕の中(たぶん)から聞こえる最後の「南無大師遍照金剛」は、歌うように神聖に、聞こえる。
 島津は、一度手に取った下駄をじっと見つめる。そして、落とす。ガタン、という音が怖いくらいに響きました。



 この話で最も“あちら側”にいるのは縫子、境にいるのが藤次籐次の場合、本当は“世間“にいるのに自分では「いない」と思っているから、あの気味の悪さが出てくる。一方で縫子は、娘の頃から既に境目をふらふらしているのだけれど、その自覚がないから”こちら側“の人を演じて生きてこられた。おかしな例えだけれど、自分が死んだことに気づかない幽霊、みたいな。他の方とは違った見方かもしれない、でもそんな気がする。


 内容や解釈はさておいて、とっても好きだった場面があります。それは縫子の独白の中で、“第二部”とも言える「我が身に返りました時」から始まる部分。まだ親に全面おんぶしている私ですから、つい他人事のようには思えないんですね。でもそれだけではなく、笑三郎さんの夢見るような表情と明るい声に、わかっているはずなのにいつも胸を打たれました。ちょっと狂ったような感情的なセリフの後、少しの間を置いているだけで、少女から大人に成長しつつある縫子の清々しい姿を見ているようでした。


結果的に、予定以上にたくさん『山吹』を観ることになった。役者さん陣は一番手堅い印象だったのにも拘わらず、一番シンプルで、回を重ねる毎に面白くなっていく”お芝居”だった。