芸術祭十月大歌舞伎 その1(夜の部)

初・生忠臣蔵です。先月国立劇場で行われた文楽鑑賞の前に、関容子さんの『芸づくし忠臣蔵』を読み通してみました。これはなかなか内容がたっぷり。おかげで、「ここでは何を考えて演じておられるのだろう」などと考えながら、集中して観ることができました。

仮名手本忠臣蔵

五段目
山崎街道はさびしい。でも、文楽の舞台に比べてだだっぴろいのに、明るく感じる。鳴り物の風の音がこれほど効果的に聞こえるものか、と感心した。
仁左衛門さん勘平も権十郎さん千崎も、声が若々しくよく通るので、ついつい「人に聞かれるよ〜。」とはらはらしてしまう。


二つ玉の段ではわかってはいるのに、「おとっつぁん、あまりに無用心ではないですか」と声を掛けたくなってしまう。わざと襲われやすいようなところに腰をかけて、聞こえやすいようにお金の話をしている、みたいな。一瞬の間のあとの不気味な場面を、観客は皆待っている。後にも書きたいと考えているが、観客は残酷な心を平気で持っている気がする。とはいえ、ここで出現する白塗りの手は、あまり不気味ではなかった。
海老蔵さん定九郎・・・白いっという印象。考えてみれば奴がいなければ話は成り立たないのに、出番はここだけ、セリフもひとつ、見せ場もひとつ、面白い役だ。「五十両」はもっと軽い方が好み・・・というより、重すぎて恐さや残忍さのようなものを感じ取れなかった。
花道が見えないので、猪や勘平の出が見えないのは仕方のないこと。撃たれた定九郎はなんだか滑稽に見えてしまって・・・なぜだったのだろう。ものすごく美しい場面のひとつであると思うのだけれど、たぶん、海老蔵さんの体格が立派過ぎてのことかなと思う。血が滴り落ちるのは左膝と勘違いしてずっとそちらばかり見ていたら、いつの間にか右が赤く染まっていて「あっ」という感じ。
文楽に比べて、この場面はずいぶん丁寧に作られているように思った。特に、花道に引っ込みかけてふと財布のことを思い出し引き返す、というところなど。ここでは音は入ったのだったか? よく覚えていないけれど、ふと”魔が差し”た勘平の心の動きが見えたような気がした。


六段目
家の中の場面にも、ずいぶん目が慣れてきた。下手側にちょこんとまとめてある小道具が、どのような段取りで使われるのか楽しみにしながら見ている。この場面では一間の前に二畳ほどのスペースがあって一文字屋の二人はそこに控えていることが多いのだけれど、なぜだろう。舞台が、と言おうか、座敷がずいぶん広く見える。
菊之助さんお軽の声にいちいち驚いてしまう。なんだろう、何が不思議なのだかよくわからないのだけれど。美しくて、お軽のはずなのに不思議な妖しさがあって・・・・・・つい、亀姫の時にはどんなだったのだろう、と考えてしまう。なにより、あのお声と玉三郎さんの富姫では合わない気がするんだけどな?
お才の魁春さんがなんとも言えず心地よかった。お軽を買う人なのに、汚さとか崩れた感じがなくて、それでも場違いでもなくて、程よく綺麗に外れている。うまく言えないけれどそんな感じ。
他のどなたがどんな演技をしていても、目は勘平に吸い寄せられる。特に、あだ討ちに加えられて漏らす笑みなぞは・・・。全体を通して勘平の年にしては穏やか過ぎるし物分りも良すぎる気がするのだけれど、そんなことを微塵も感じさせない。ただただ、一緒に悲しくなったり苦しくなったりほっとしたりする。


観客は勘平が死ぬのを知っていて、言ってみればそれが最大の見せ場であったりする。誤解が交錯していることを知りながら、勘平が腹に刀を突き立てる瞬間を待っている。それまで最大の緊張感を保っていて、その場面でふっと息を抜く。考えてみれば、なんて残酷なんだろう。文楽で判官切腹の場に居合わせたときにも、そんな風に感じた。